深層


『…このように、年齢とともに睡眠時間は減少していくわけですが、
 同時に、睡眠の「質」の低下、すなわち、睡眠全体が浅くなり、加えて
 睡眠波形も不規則になっていく、という変化が起きるわけでありまして…』

『…の公理系の中に、たとえ直感的には自明でない物が含まれていても、
 論理体系が無矛盾かつ有意な多様性を持っていれば…』

『…だから俺は思ったんだよ、あいつ絶対に嘘ついてるだろうって。
 それで改めて問いただしてみたんだ。そしたらあいつ何て言ったと…』

『…これは危ないからダメって言ったでしょ!! …こっち?
 これもダメよ、だから言ってるでしょ危ないの、何度言ったら…』

『…レネリン、ピレネリン、急な発熱に、ピレネリン…』

言葉と光と音の渦が、レムの夢の中を駆け巡った。
膨大な情報群は、関連した事象が糸のようにつながり合っていて、
手繰り寄せる度に、それらは一つの映像となって、レムの脳を流れた。
はっきりとした感覚と、記憶の中に蓄積された高度な思考能力によって
レムはそれらを認識し、理解した。


目覚めている時のレムは、何も考えることができなかった。
ただ心地良い温もりと、限りない安堵に包まれていることを、
再び眠ったときに、改めて実感するのだった。

レムは深く深く眠り、また言葉と光と音の渦の中を漂った。
それは、やがてはレムにとって脅威となる物であったが、
それを拒絶する本能は、今はまだ芽ばえていなかった。

新たに記憶が増えることはなかったが、その膨大な量の情報群は
内容を繰り返すことなく、何百回という眠りの中で、
レムの脳を駆け巡り続けた。



『…夢…のは…脳が形…し…記憶を再…する…』

夢は少しずつ、不明瞭になっていった。
秩序を失いかけた言葉や光や音が共感覚のように混ざり合った映像は
多くの不条理や矛盾を抱えていたが、
レムの思考能力も同時に不明瞭になりつつあったので、
レムがその変化を自覚することはなかった。

目覚めた時のレムは、ぼんやりとした緑色の世界を認識するようになっていた。
辺りにたちこめた匂いはレムに期待と不安を与えたが、側には常に
安堵の匂いがあって、レムはまだ恐れるべきものを知らなかった。
眠りにつく間も、レムは見知らぬ匂いと安堵の匂いを嗅ぎ分けて、
自分の安全を確かめていた。

レムの脳に新たな記憶が流れ込み始め、
不明瞭な夢の世界は、わずかに緑色がかっていた。
思考能力の脇に生まれた本能で、レムは言葉と光と音をかき分け、
安堵の匂いを探した。



ぼんやりとしていた緑色の世界は、ピントを合わせるように
少しずつ鮮明になっていった。
レムは懸命に動き回り、色々なものや感覚に出会い、
その世界を大きく広げていった。
満たされるもの、安堵するもの、心が躍るもの、
関わりのないもの、注意すべきもの、危険を与えるもの…
芽ばえ始めた本能と思考で、レムはあらゆるものを認識し、理解しようとした。

そしてある時、強い衝動にかられて、レムは広い世界に飛び出した。
一人で生きていくためには、あらゆる危険に対して
注意を払わなければならない事を、レムは理解していた。
レムは眠る間も耳をぴんと立て、常に警戒を続けた。


『…思……を……にて…生……し…』

記憶の中にあった言葉の最後の一すくいが
小さな水溜りのようにゆらめいて、意識の奥に沈んで消えていった。


レムは広い世界を駆け回った。
色々なものを見て、感じて、わずかに思考した。
そして危険に身構えた浅い眠りの中で、
意識の表層に浮かぶ、この世界の記憶を夢に見た。

遠い前世の記憶は、安堵に満ちた深い眠りの中で夢見た、
二度と辿りつけない意識の奥深くで、
静かに渦巻いていた。                       (終)