悪魔の絵


たどり着いたのは、古風で落ち着いた雰囲気の家が立ち並ぶ
すてきな街だった。
レンガ屋根が坂に沿って一面に並び、
夕日を受けて燃えるような赤に染まっている。
明日からさっそく絵を描こうと、構図をあれこれ考えながら
私は教わった宿を目指した。

大通りに並ぶ店のショウウィンドウを横目に歩いていると、
不思議な光景が目に飛び込んできた。

そこは、通りに向けて一面ガラス張りになった小屋だった。
部屋の中央にはキャンバスが立てられ、
天井から垂れた裸電球が、それを弱く照らしていた。
他には、何もなかった。

一瞬どきりとしたが、私の目はすぐに、その絵の方へと向いた。
それは植物画で、つる植物ともシダ植物とも思える緑色の線が
複雑に渦巻き、真っ黒な背景に鮮やかに浮かび上がっていた。

魅力のある絵だったが、部屋の雰囲気も相まって、
言い知れぬ恐ろしさも感じられた。
背筋がスッと寒くなるのを感じ、私は絵から顔を背けると、
早足で宿へと向かって行った。


次の日、私は街中でスケッチを取った。
色調の統一された建物は、場所や角度で異った表情を見せてくれる。
私はその全てを収めようと、夢中で街を歩き回った。

夕日が落ちて赤屋根が闇に染まり始めた頃、
宿への帰り道に、あの小屋はあった。
その前へと差しかかり、恐る恐るあの絵へと視線を運んだ私は、
再びどきりとする羽目になった。

そこに描かれていたのは、巨大な獣の眼だった。
深紅で描きなぐられた毛並みの上に、やはり荒々しいタッチで、
キャンバスを埋め尽くすような大きさの眼が描かれていた。
針のように細い瞳は、裸電球の弱い光に照らされて、
突きさすような鋭い眼光を帯びていた。

私は慌てて走り帰りながら、次々と浮かんでくる疑問について考えていた。
あの絵はいつ取り替えられたのだろう?
そして誰が?何のために?
いや、そもそもあの小屋自体が、何のための物なのか?
絵を1枚飾るためだけの物?

ラジオを付けっ放しにして、私は眠りについた。


次の日、数枚の絵を書き上げた私は、
大通りに出て、再びあの小屋の前を横切ろうとしていた。
もう目の前を歩きたくなかったので、通りを渡り、反対側を行くことにした。
視界の端で離れた小屋をちらりと見ると、そこには人影が見えた。

もうこれ以上関わりたくない気持ちもあったが、
事情が分かった方がまだ気が和らぐだろうと思い、私は小屋へと向かった。

小屋の中では、老人がキャンバス全体を真っ黒く塗っている所だった。
これから描き始めるのだろうかと見ていると、
まだ塗られていない右端の方に、昨日の、あの獣の眼が見えた。
「あっ」

「おや、珍しいね。お嬢さんみたいのがこんな所で立ち止まるなんて。
 旅の人かい?」

私は小屋の中へと入って、答えた。
「ええ、この街でしばらく絵を描こうと思ってまして。
 それで、その絵なんですが…」

話している間も、老人の手は休まず動き続けた。
黒く塗られたキャンバスに、青みがかった灰色がのせられていき、
次第に岩肌の形を成していった。

「同じキャンバスに塗り重ねているんですね」
キャンバスのふちは茶色く変色してめくり上がり、
はみ出した絵の具が黒く固まってひび割れていた。
相当な年月を感じさせる。

「これを毎日おじいさんが?」
「いや、一人じゃ間に合わんし、なにかあったら困るだろうからな、
 何人もで交代ばんこさ。それで毎日ということにはなろうが」

中央部分が黒く残されたまま、周りを囲むように、岩肌が塗られていく。
鋭く尖った岩が、上の方から伸びてきた。
どうやら洞窟を描いているらしい。

私は、肝心の「なぜ」の部分を切り出すのがいやにためらわれて
しばらくの間、筆がすすんでいくのを眺めていたが、
ふと、奇妙なことに気づいた。

キャンバスを真横から見たときに、絵の具の厚みが全く見られないのだ。
それだけ塗り重ねられたものなら、相当な厚みがあっていいはずだ。
現に、今塗った黒や灰色は、わずかだが、それぞれ厚みを持っている。

少し安心していた私の背筋に、再び寒気が走る。


老人が手をとめた。
波打つ岩肌は奥に行くごとに暗くなり、
黒く塗ったままの常闇が、中央に口を開けていた。
鍾乳洞が大小さまざまに垂れ下がり、ぬめりと光る。

私は、中に吸い込まれそうになりながら、
妖しい魅力をはらんだ、その絵を見つめていた。
実際に人が描いているのを見て、昨日おとといのような恐さはなかったけど、
それでもその異様な雰囲気に、心臓が高鳴った。

「そうだな、お嬢さんもひとつここに描いてみらんかね」
部屋の片隅に置きっぱなしになっていた私の画材かばんを見て、
老人は言った。

「え? 今描いたばかりなのに、ですか?」
「ああ、別に人に見せるもんじゃないからな」
「…?」

外はすっかり暗くなり、人気の無くなった通りに、
全面のガラスから、電球の光がじっともれ出していた。

「そうすると、後で気を悪くするといけんから、
 この絵のあらましを話しといた方がいいんだがね」

私は、一瞬目を見開いた。
そう、それが気になるばかりに、私は背中を冷たくしながら、
こうしてずっとここにいてしまったのだ。
自分から聞くのはどうしてもためらわれたが、話してくれるのなら
ぜひ聞いておきたい。描く描かないは別としても。

「わしもこれは人づての話だから、本当にいつの事なのかは分からん」
そう言って、老人は話し始めた。


昔、この小屋は、街でも有名な装飾品店だった。
家族で営んでいて、どの者も愛想がよく、品も確かで、
店はいつも賑わっていた。

ところがある日突然、店ががらんどうになったかと思うと、
一家は揃って行方をくらませてしまった。
そして数日後、家族の一人である老婆がふらりと戻ってきたかと思うと、
小屋の中から一晩中、街の人々への、憎しみや呪いの言葉が響きわたった。

翌日、再び老婆の姿はなく、部屋の真ん中には
あのキャンバスが立てられていたのだ。

そこに描かれていたのは、見るもおぞましい悪魔だった。
その絵を見た者はたちまち倒れて、三日三晩、熱と悪夢にうなされ、
悪魔の姿は一生頭にこびりついて離れなかったと言う。

すぐに絵は塗りつぶされ、新聞紙に包まれ、燃やされたが、
次の日には、元の格好で小屋の中に置かれていた。

絵に布をかぶせても、小屋のガラス一面に紙を貼り付けても、
気がつくと、元どおり、絵のよく見える格好に戻っていた。

小屋ごと取り壊しても、やはりしばらくして、すべて元通りになっていた。

人々はあきらめ、小屋の前を通る時は、絵に目を合わせないようにした。
夜には明かりの中に絵がはっきりと浮かび上がるので、
視界の片隅に入れるのも恐ろしく、小屋に近づく者はいなかった。

そんなある日、盲目の絵描きが小屋を訪れ、悪魔を塗りつぶし、
その上に絵を描いた。
すると、絵描きの暗い目の中に悪魔の姿だけが浮かび上がり、言った。

「お前はその目で、なかなか良い絵を描くじゃないか。
 よし、俺は絵を眺めて暮らすことにしよう。
 いいか、この上に絵を描いていくんだ。
 見終わった絵は、俺が食ってしまう。つまらん絵はすぐにだ!
 もう一度俺の姿を拝みたくなかったら、どんどん絵を塗り重ねろ、
 そう他の者にも伝えておけ。
 絵心のある者なら誰でもかまわん。絵を描くんだ!」


老人が話し終えると、私は息を飲んで、あらためて絵を眺めた。
にわかには信じがたい話だったが、
それでも私が抱いていた疑問には、すべて答えが出たことになる。

洞窟の絵からではなく、キャンバス全体から
どうしようもない恐ろしさが感じられた。

もし話が本当ならば、このキャンバスの一番奥に、
数枚の絵を隔てて、その悪魔が描かれていることになる。
心なしか、いま老人が描いた分の厚みも、少し減ったように見え、
今にもこの洞窟の奥から、悪魔が這い出てきそうな気がした。

私はパレットを手に取った。

「まぁしかし、そう恐がることもない。
 悪魔も、絵を描く者に悪さをすることは、まずなかろう。
 ただ言っとくが、お嬢さんが今からどんな絵を描こうと、
 自分で驚いたりしないことだ」
「…というのは?」
「まぁ、描けば分かるんじゃないか」

私はキャンバスの洞窟を、再び黒く塗りつぶした。
真っ黒なキャンバスにしばらく向き合っているうち、
ふつ、と心の中から、何かが込み上げてきた。

背景の黒に同化しそうな暗い土色を作って地平線を描き、
そこから下を塗りつぶす。
キャンバスの中に、空間が生まれた。

私はその、暗く寂しい中に立って、迷い、依り所を探すようにして、
空間に色をのせてゆく。
それらは決してその世界を彩ることはなく、
川の澱みのようにして画面を濁らせては、積み重なってゆく。

木は朽ち枯れ、ツタがそこに巻きついたまま、半ば風化していた。
わずかに緑色をはらんだ草の葉は、黒斑に罹ったようにして、
土と暗闇の色に侵食されていた。
星空はまるで腐ったように、にじんだ光を地平線に向けて垂らし、
混じり合いながら次第に灰色がかって、空の底に溜まる。


描き終えた途端、私の体にどっと疲労が押し寄せた。
筆とパレットを握った手には、じっとりと汗が滲んでいた。
私は絵の中から戻り、はじめて、その全体を眺めた。

こうして筆を握っていなければ、とても自分が描いたと思えない、
暗い世界がキャンバス中に広がっていた。

「まあ、そう恐がりなさるな」
私の気分を案ずるように、老人が静かな口調で言った。
「お嬢さんも、いつもは綺麗な絵を描くのかも分からんが、
 悪魔はそういったのを好まないもんでな。
 これに向かうと、自然とこういう絵になってるんだ」

昨日おととい私が見た絵の、背筋が冷えるような静かな怖さ。
それと同質なものを、この絵は持っていた。

「もちろんこの絵は、お嬢さんの心の中から生まれたものだが、
 絵の中身なんかは、あまり深く考えんほうがいい。
 心の奥底というのは、色んなもんが混ざり合って、溜まってるもんだ。
 それで今、そいつを思い切りここに吐き出したわけだから、
 悪い気はしないんじゃないかい?」

汗ばんだ腕に、電球の明かりが照りつける。
部屋がひどく狭く感じられ、強い圧迫感に襲われた。

「では、私はこれで。今日はどうもありがとうございました」
「こっちはいつも手一杯だからな、またいつでも来るといい」


私はもうあの小屋の前を通ることはなかった。
疑問も一応は解決したし、もう一度あのキャンバスに絵を描こうという
気持ちにもならなかった。

私の心は、いつにも増して軽やかだった。
老人の言ったとおり、私はあのキャンバスに
心の奥底を吐き出したのかもしれない。

気ままな暮らしをしている私だから、
今まで溜めてきた分はすべて、出してしまったのだろう。

一枚の絵が描き上がり、私は街を発つことにした。

レンガ屋根の赤を描いた一連の絵の中でも
最後に描いたこの絵は、ひときわ色鮮やかに見えた。
                                          (終)