誘蛾灯リリィ


蛍素ランプに灯された薄緑色の火が
わずかに残る夕明かりと混ざりあい、鈍く揺らめいた。
やがて辺りが暗くなり、その光が本来の色を取り戻すと、
リリィは静かに歩き始めた。

町には既にあちこちで門灯がつき、
次第にその光をくっきりと浮かび上がらせていった。
いくつかの灯には白い蛾が群がり、
その影を踊らせるようにせわしく飛び回っている。

リリィの歩調に合わせてランプが揺れる。
そしてリリィが蛾の群がる門灯の傍らを通り過ぎようとした時、
ランプに吸い寄せられるようにして、蛾が集まり始めた。
蛾は次第に濃度を増しながら、光を取り囲むように舞う。
時折ランプが大きく振れると、蛾たちは白い塊となってそれを追い、
鱗粉や羽の断片を散らしながら、ぼんやりとランプを覆った。

それは、郷篭節に降る雪のような純白ではなく、
畑起こしの頃に遅れて降ってくる濁った雪、
さらには、それが溶け残ってできたような、ひどくくすんだ白だった。
鱗粉が衣服に降り積もるさまも、季節外れの雪と言うよりは
ホコリを被ったようなみずぼらしさだった。

「イラカブリだ!」「早く家に入れー!」

町の大通りに差し掛かると、家へと飛び込む子供達の足音と
扉や窓の閉まる音が響いた。
一瞬足を止めて静まり返った通りを見回し、リリィは中へと進んでいく。

通りに並んだ門灯の明るい物を選ぶように群がっていた蛾が、
横切るリリィのランプを追って集まってくる。

「お母さんー、イラカブリが来るよ」
「こら、イラカブリなんて呼んじゃ駄目って言ったでしょう」
「だってみんなが…」
「誘蛾灯はね、町に下りてくる蛾を山に返す、大切な役割なのよ」
「大人も逃げるのに?」
「それは…粉を撒き散らすんだから、仕方がないじゃないの」

いくつかの話し声が、通りを歩くリリィの耳にもわずかに届いてきた。
ちらりと視線を返して静かにさせる事もできたが、
時折ランプと蛾に目をやっては、そのまま家々を通り過ぎていく。

通りの延長の細い道は、山道へと続いている。
リリィとランプは木々に少しずつ隠れていき、やがて消えていった。



「やめろ!こっちくるなよ!! あっち行けったら!!!」

その声が聞こえたのは、下草に覆われた道が
少しずつ険しくなり始めた頃だった。
多量の蛾が、少年のまわりにまとわりついていた。
リリィはランプを一振りし、蛾たちを引き寄せる。

「あ、ありがとう…」

すすけた服と薄緑のランプ、そして周りを飛ぶたくさんの蛾は
少年にもよく見覚えのある姿で
リリィの事を、すぐに理解したようだった。

少年の脇にあるハクレイの灯は蛾を集めるほど強くはないし、
だいいち、蛾は少年の方に群がっていた。
案の定、少年に顔を寄せると、甘い匂いが鼻をついた。

「あなた、ベッコウ蜜なめながら山の中歩いてたの!
 そんな事したらどうなるか、誰かに教わらなかったの?」
「…知らないよ。蛾の事なんて、だれも話さないもん」

立ち上がった少年は、ランプと中身の散らばったカゴを拾いあげた。

「山菜を採ってて、気がついたらもう真っ暗になってて、
 お腹すいたからベッコウの瓶を開けて、そしたら蛾が集まってきて…
 …お姉ちゃんから離れたら、また蛾が寄ってくるのかなぁ…」
「そうね、多分。」
「ちぇっ、もうこんな奴ら、いなくなっちゃえばいいのに」
「…しばらくすれば匂いも消えるから、それまで私に付いてきてちょうだい。
 帰りは家まで送ってあげるわ」

少年は、うごめく白い塊に目を向けて怪訝な表情を浮かべたが、
リリィが歩き出すと、慌てて後を追った。

中木のブナ森が続き、山道には石が混ざり始めていた。
夜鷹の短い声が時折遠くでするほか、森からは何も聞こえてこなかった。
小枝を踏む音に混じって、蛾とランプのぶつかる音が
チリチリ、チリチリと、深い静寂に吸い込まれていく。

少年はリリィの灯りを頼りながらも、
鱗粉を振り被るのを嫌い、その距離を計りあぐねた。

「…粉、吸っても病気にならない…?」
「少しぐらい大丈夫よ。じゃなきゃ私はどうなるの」
「お姉ちゃんは蛾がキライじゃないの?」
「…ねえ、今日は星がとてもきれいよ。ほら、木の間からでもこんなに明るい」
「星? あ、うん、本当だ…」

少年が言葉につまった所で会話がとぎれ、
二人は黙ったまま歩き続けた。
ランプに照らし出された森は、鈍い影を作りながら流れていく。

匂配がなだらかになるに従って木々がまばらになり、
森を抜けた先には、オオイヌシバの草原が広がっていた。
開きかけた狐色の穂がランプのすぐ下まで伸び、
ぎざぎざとした陰影が向かいの森まで続いている。

「蛾の話を誰かに聞いたことはないの?」
「うん… 多分、小さい頃におばあちゃんが…。」
「多分?」
「みんな蛾が嫌いだったし、僕もあまりちゃんと聞かなくて、
 だから、ほとんど覚えてないんだ…
 おばあちゃんが死んじゃってからお姉ちゃんが来るようになって、
 町の蛾は減ったんだけど…」
「そっか、じゃあ、おばあちゃんは見たのかもしれないね」
「…え?」

リリィは足を止め、空を見上げた。
雲はほとんどなく、ランプから離れるにつれて、星明りが鮮明に映った。
追いついた少年がリリィの横に立ち止まる。

「明かりを消すから、足元に気をつけて。
 暗くなったらランプの方を見上げるのよ」

残光が消えるか消えないかの間に、蛾の群れは、ふわりと舞い上がった。



ラビス群星を寒色帯から放射帯まで重ね合わせたような淡いグラデーションが、
ケルケウスの変光星をちりばめたように、端々で七色に瞬いた。
流星群のような光量は無かったが、その色彩と繊細な輝きには、
天体の美しさをよく知る者でも、目を見張ったかもしれない。

蛾の鱗粉が輝いていた。
鱗粉は空中に散りながら星明かりを拡散するように色とりどりに染まり、
夜空の隙間を埋めるように広がっていった。

「すごい…」
「蛾の鱗粉はね、星明かりを受けて光り輝くの。
 ランプの光で簡単にかき消されてしまうんだけれど。
 …今日はあなたが集めてくれたおかげで、いつもよりきれいみたい」
「あんなに白い蛾だったのに…」

羽を淡い光で縁取りながら、蛾が四方へと飛んでいくのが見えた。
羽ばたきに合わせて不規則に散る鱗粉が、薄く棚引いてゆく。

「恵緑節に星祭りがあったでしょう。」
「星祭り? …うん」

星祭り、と言ってもそういう名前が付いているだけで、
他の祭りと内容に大きな差はなかった。

「あれはちょうど、蛾が山から下りてくるのと同じ頃なのよ。
 昔の人が、蛾は『星を降らす』って言って、
 星空と対をなす大切な存在だったみたい。
 …まぁ今は星を見る人さえほとんど居なくなったんだけど」
「じゃあ、昔はこれが町でも…」
「とっても昔、町にランプがつく前のことよ。
 あなたのおばあちゃんが小さい子供だった頃かもしれないし、
 それよりももっと前かもしれない」
「いつも見る蛾は、あんなに汚いのに…」

時折吹いてくるそよ風に、鱗粉は渦を巻き、
天球をなぞるように流れた。

山の稜線に薄くかかった雲を鱗粉が彩り始めると、
蛾は一匹、二匹と、草の間に隠れていった。

「私たちはランプがなくては生きてゆけないし、蛾は星明りがなくては輝けない。
 一緒には暮らしていけないのね、残念だけど」
「なんか、さみしいね」

ひゅうと強い風が吹き、草がいっせいになびいた。
残っていた鱗粉も吹き流され、静けさを取り戻した夜空には
先程までのように星が瞬いていた。
もう辺りに蛾の姿はなかった。

「これで私の仕事は終わり。さ、帰ろう」



遮光幕を下ろした蛍素ランプが、沈んだ褐色の光を纏った。
二人分の足元を照らすには心もとなく、
リリィは少年に、ハクレイを灯すよう促した。
ほの白い光がぽう、と浮かび上がり、草原に円をえがく。

二人は再び森に入り、山道を降りてゆく。

「ランプのない暮らしなんて考えられないけど…」

二つの明かりが作る影をぼんやりと見つめながら、少年は言った。

「次の星祭りの夜にさ、町の明かりをいっせいに消してみたらどうだろう」
「そうね… でも蛾のためにそこまでしてくれるかしら」
「みんなにも見せてあげたいから…」
「もしできるのなら、私も手伝うわ。蛾を集める役目が必要だものね。
 それと…」

リリィが袖の皺をピンと伸ばすと、鱗粉がホコリのように巻き上がった。

「この格好もなんとかしないとね。これじゃ蛾が汚いと言い回ってるようなものだわ」

クスリと微笑むリリィを、少年は不思議な気持ちで見ていた。
他の子供達と同じように家のカーテンの隙間から眺めていた時とは、
蛾もリリィも、別なもののように映っていた。
星空、蛾の鱗粉、リリィの話す祭りの様子が頭の中を巡り、
ランプの火に揺られるように、胸が高鳴った。

「ねえ、お姉ちゃんの名前は?」
「私はリリィ。」
「リリィ。僕はムク」
「ムク、ね。よろしく」

とかげ銀河の青白い尾が東の空に昇り始め、夜が深まろうとしていた。
山の中腹から見えた町には、色とりどりの門灯が輝いていた。
                                            (終)