狐火


彼が愛したのは、狐の私でした。
犬の私はというと、ただ狐の面の奥に顔を隠して、
琥珀色をした切れ長の眼をじっと見つめながら、
頬を撫でる薄茶色の長毛の感触に、ただ身を任せるだけだったのです。


ふた刻前、いちょうの並木通りには、たくさんの祭提灯があかあかと浮かび、
所狭く立ち並んだ屋台店の間を、行き交う人々がひしめいていました。
焼けた油の匂いと、時折混ざる綿菓子や薄荷紅の香り、
そして祭囃子の音と人ごみのざわめきの中を、
私は歩いていました。

御蔵酒を片手にほろ酔いになっていた私の目に、
通りを一歩外れた、薄暗い屋台が飛び込んできました。
屋台に並んでいたのは、木彫り十文の、それぞれ少しずつ表情の違う、
すべて狐の面でした。
店行灯に背を向け、影を落とした面の顔には
かっと開いた眼が白く浮かび上がり、
その真ん中に小さな赤い瞳が、妖しい光をはらんで揺れていました。

私は面を一つもらい、顔に被りました。
また酒をぐいと飲んで、私は狐の妖や気の眼を持った気になり
気分よく人ごみを分けながら、提灯の灯りの並びに誘われるようにして
人のまばらになった並木の外れまで、ゆらゆらと歩いていきました。

提灯の照らす通りの脇では、神社の建つ裏山の裾が闇に染まっていました。
その暗がりの中から、手持ち燭台の灯りに
すっと浮かび上がったのが、彼だったのです。


彼は薄茶色をした里犬で、ぴんと張った立耳の先は栗色に染まり、
羽織った細切袖の鬼衣が、暗がりの中で角張った影を作っていました。
袖口からすらりと伸びた細い腕が顔を繕い、ふわりと舞った長毛が
蝋燭の光を透かして、ほの白く光りました。

彼は手を降ろすのと一緒に顔をこちらに向けると、
白い切れ長の眼がのぞきました。
大きな琥珀色の瞳が、蝋燭の火をゆらりと映しながら、
長い目の端から、ぐるりと私の方に向きました。

とくん、と鼓動が跳ねました。
体を大きく揺さぶる血の音にかき消され、
少し離れた所から聞こえていた祭の音が遠くなる気がしました。

急に私を捉えた視線に戸惑いながらも、
私はその視線の微妙なずれを感じ、そして狐の面の事を思い出しました。
彼が見つめているのは、私ではなく、狐の面の、
妖や気の眼だったのです。

彼は彼で、蝋燭がなくなりそうなのにも気づかずに、
狐の妖や気の眼に魅せられたように、暗がりに体を残したまま
立ちつくしていました。

高ぶった鼓動がまた酒の酔いを回し、私は鼻緒をずらして、
ふらりと彼のほうによろめきました。
がらん、と音を立てて燭台が落ち、
両腕の感触が、私の背中に回ってきました。
飛び散った蝋が柔肌のように光って固まり、
わずかに残っていた火はすぐに消えて、
私は暗がりの中にすっと飲み込まれました。

冷たい夜風がひゅうと通り抜け、祭囃子の音と人のざわめきは、
再び遠くの方へと離れてゆきました。


石段を上がる下駄の、からりという音を跳ねかえすように、
こおろぎがきりきりと乾いた音で鳴きました。
ぴんと張った彼の切袖が私の体を包むように受け止め、
二人は一つの影のようになって、一歩一歩と闇を分けていきました。

神社の本堂の庭で途切れた提灯の、最後の灯りが少しずつ遠のき、
いびつな石段を蹴る二人の下駄が、おぼつかなく音を立てました。
辺りが闇に染まりきる前に、ほのかな光が段を縁取り始め
両脇の植木がひらけた所で、分社の屋根と一緒に、
黄色い満月が顔をのぞかせました。

はるか下の方で、祭の音や匂いや熱気が小さく混ざり合い、
それを見下ろすようにして、分社の小さな庭が広がっていました。
最後に刈って随分経ったような庭草がまばらに伸び、
溜まった月明かりを受けて、時どき夜風にさらりとなびきました。

分社の軒下に二人で腰掛けると、彼は体を寄せて、
狐の眼をじっと覗き込みました。
私は浴衣の中で細い尾をふるふるとふるわせながら、
能舞のように、月明かりに面を照らし出して
その表情を彼に合わせるのが精一杯でした。

ふいに彼が私の肩に手をかけ、腕の長毛が
私の首すじから鼻先をくすぐりました。
一層近くに寄った琥珀色の眼を見つめて、私は身がやけそうになり、
浴衣の帯にきゅっと締め付けられた気がしました。
気づかないうちに私が帯に手をかけていたのを、
彼がその上にひたりと手を重ね、また吐息のかかるくらいに
顔を近くに寄せました。

軒先をゆっくりと流れていた風がやみ、
辺りの空気が、ふいに熱を帯びました。

浴衣の春日清流が月明かりで水面のように揺れて光り、
さらさらと流すようにしてできたその溜まりに、
彼の鬼衣が、はさりと重なりました。
触れ合う毛の間を、麝香を帯びた熱気が
糸を引いた水飴のようにまとわりついて、二人をつなぎ止めました。

月にかかった厚い雲が再び二人の身を隠し、
青い縁取りの消えた草陰では、一匹、一匹と、すずむしが鳴き始めました。
上がる息の間隔がせばまるのに合わせるように
すずむしのりいん、という声が数を増し、
ついにひと続きの音になって、暗闇の中で高まっていきました。

どおんと轟音が響き、川の向こうで流し菊の大尺玉が弾けました。
八重咲きのほうき星が七色に夜空を染め上げ、
引き足に上がった閃光が、庭をまっ白く浮かび上がらせました。
思いがけず瞬間を見合って、私は気恥ずかしくうつむき、
すずむしの黙り込んだ静寂の中で、二人はびりびりと体を震わせていました。



二人の体から火が消えた後もずっと、
彼の瞳にはこうこうと光が灯っていました。
私は、少しずつ冷めていく体をぐっと彼にうずめながら、
同じように冷めていく意識の中で、また面のことを思い出し、
この狐の眼も、彼に妖しい光を返しているのだろうと、
悲しい気持ちになりました。

空いっぱいに広がった雲が月の光がますます弱め、冷たい夜気が体を這いました。
暗闇を突き抜く彼の熱い視線に身じろぎながら、
私は、涙を流すのに合わせてその狐の面を投げ捨ててしまおうかと思いました。
すると、面の方が先に泣き出したのです。

いくつかの雫がぽつり、ぽつりと面の上を伝い、肌に落ちた後、
残った熱を洗い落とすように、さぁっと雨が降りだしました。

細かな雨は静かな音を立て、その中に、人の声がうっすらと混ざって聞こえました。
下の並木通りは慌てて走り帰る人々で乱れていて、
一つ、一つと消えていく提灯と共に、祭の熱気は急速に冷めていきました。

土を撫でるような低い飛沫が、うっすらと白く見えていました。
力なく庭先に視線を落とす私を横目に、
彼はすっと立ち上がり、ゆっくりと庭の真ん中の方へ歩き出しました。

彼は立ち止まると、ついと空を仰ぎました。
濡れしなだれた長毛と、はりついた鬼衣が体の線を露わにし、
細い影が暗闇に浮かび上がりました。

同じ調子で続く雨の音が静かに庭を覆い、
飛沫の白い絨毯は、庭の土から、じっと天を睨む彼の影へと
つながっていました。


強い風が起こり、細かい雨が横から吹きつけました。
雲がざあっと一斉に流れ、再び顔を出した月が
たくわえた光を洗い出すように、明るく輝き始めました。

空から雲がなくなっても、雨は相変らずさらさらと降り続け、
黄色く染まってうねりを描いてました。
人気のなくなった並木通りでは、行灯屋が小走りになって
揺れる灯りを雨に滲ませていました。

彼の薄茶色をしていた毛は、月明かりを受けて
黄色く光っていました。
そして、彼の立つ庭の真ん中で雨が途絶え、
月と彼を結ぶ道筋が白く浮かび上がったかと思うと、
彼の体毛と羽織った鬼衣が、ふわりと舞い上がったのです。

じっとりと含んでいた水気をすべて飛ばしたように、
毛先の一つひとつが、思い思いの方向に流れました。
鬼衣の隙間からも黄色い光が漏れ、
先の方だけ覗いていた細い尾は、すすきの穂のようにふくらんで
衣を押し上げてふわふわと揺れていました。

彼は月明かりを一番に受けていた顔をこちらに向け、
両手を頬にあてました。

次の瞬間、胸元に下ろした両手に、彼の顔がありました。
薄茶色をした、木彫りの犬の顔。
一瞬目の合った琥珀色の眼が、変わらず光っていました。

そして面の奥、そこには、金色に輝く狐の顔がありました。
さっきまで同じように、細い眼の中の琥珀色の大きな瞳が、
私の被っている狐の面と同じ、妖や気の光をたたえて、
今度はまっすぐに、私の眼を見つめていました。

ああ…
貴方は今、狐の面を透かして、私の眼を見ているのですね。
そしてさっきまでも、狐の面を透かして、ずっと私の表情を窺っていたのですね。
なんて、人の悪い方なんでしょう。

恥ずかしさと嬉しさで頭がまっ白になり、
私はぼうっと彼の顔を見つめていました。

ふいに彼は私の方に歩み寄り、私の顔から、狐の面を外しました。
そして細い鼻先をぐっと近づけ、私に唇を重ねました。
心の中までかきまわされたように、私の眼からどっと涙があふれ、
目の前に迫った琥珀色の瞳が、溶けそうな程に滲みました。

狐火が一つ、ぽうと上がりました。
彼が、そこに二人の被っていた面を投げ込むと
狐火は勢いを強めてめらめらと燃えました。

それは本当に、もう必要のない物なのかしら、という声も出せずに、
私は、狐火の中で二つの面が燃え、ぱちぱちと上る火の粉が
雨に打たれて小さな煙に変わっていくのを、ただ眺めていました。


月明かりに黄色く染まった空から細かな雨が降りそそぎ、
深い木々は、さらさらと音を立てていました。
狐火の導く先には、山奥へと続く獣道がどこまでも続いていました。
ゆらゆらと揺れる琥珀色の眼を見つめながら、
私は彼の鬼衣に深く包まれるように、ただ身を預け、
細く暗い獣道に、足を踏み入れました。                   (終)