雲の渡り道


見下ろした羊の群れは、夏の綿雲によく似ていた。

群れで一番大きなダリアの背中に立った僕は、
一瞬、雲の上にいるような感覚になる。
でも足元のしっかりとした感触は、雲とは全く違うものだった。

谷は低い雲を飲み込んで、谷底の川と一緒に、どこまでも続いている。
巻き上がった雲の向こうに、対岸がかすんで見えた。

僕はダリアの背中に、もさっと倒れ込む。
「お前は本当に暑っ苦しいなぁー」

眠気で重たくなった体を慌てて起こし、羊たちを谷の斜面に向かわせる。
ダリアの背に揺られながら谷を見下ろすと、
山肌をなでて漂う雲が、顔をかすめていった。

すじ雲の集まりが谷を満たし、
谷全体が、一つの大河のように流れを作っていた。
すじ雲は分厚い層をなしていたが、それでも遥か下方にある谷川が、
はっきり線を描いて見えている。

(おかしいな、今年は少し雲が少ないのかな…)

上流の方には、大きなカナトコが立ち上がり、
せり出した下端が、こっちの方に迫ってきている。
そのかたまりの一つ一つが綿雲になり、やがてここまで流れてくるのだ。

僕は地面に降り、羊たちを集めると、一頭一頭の体調や毛並みを見て回った。

「マリーは塩草を全然たべないから、どうも毛並みが整わないなぁ。
 ルシェ、お前はちょっと太り気味だから、あとで一人で歩かせてやろうな。」

僕は羊の群れを、いとおしく眺めた。
この中で、一番健康で、毛づやが良くて、気立てのいいのは、どの子だろう。

僕はもうすぐ、この中から良い羊を3頭、選ばなければならない。
そして、その子たちを手放さなければならない。

キャラバンの夏が、近づいていた。



村の集会広場に着くと、人だかりができていた。
山師のガゼフさんが帰ってきて、夏の事を話し合ってるようだった。
険しい谷を行き来する事ができる山師は
対岸の様子や雲の動きを探ってくるのが主な仕事で、
夏の始め、谷に綿雲が下りてくる前に、谷を登って村に戻ってくる。

「おう、ホルンか。すっかり立派になって、もう一人前の羊飼いだなぁ」
「こんにちは、ガゼフさん! 谷の向こうはどんな感じでしたか?
 雲の具合は? キャラバンは!?」

「遅いぞ!ホルン。今、ガゼフさんがそれを全部話し終わったところだ。
 もう一回最初っから話させるつもりか?」
「ホルンの好きそうな話ばっかりだったから、俺は退屈で仕方なかったぜ」

ゼッペとパルが囃し立て、笑い声が上がった。

「すいません、雲の様子を見に行ってきたところだったので」
「こっちの雲はどんなものなんだ?」
「それが…今にしては、まだ薄い気がするんです」
「やはりか。おそらく大凪の頃だと、まだ綿雲が少しばかり足りないだろうな」

毎年夏、上流のカナトコから流れてきた綿雲が、谷を覆いつくす。
そして数年に一度、谷風の大凪が重なる日に、
谷に満ちた雲を渡り歩いて、対岸からキャラバンがやって来るのだ。

「それじゃあキャラバンは…」
「そいつはお前たちの頑張り次第だなぁ」

それからガゼフさんは、谷の対岸の様子を話してくれた。
対岸では日に日に技術が発展していた。

薬品、肥料、ランプ、レンズ等、生活のあらゆる面で便利になっていること、
火と蒸気を組み合わせて、大きな装置を動かす技術が生まれたこと、
そして、火薬を使った武器が発明され、不穏な空気が流れていること。
もっともこれは当分、キャラバンにまで入ってくることはないらしい。

そしてもう一つ問題があった。こっちはもう何年も前から
言われていて、僕も知っている事だったが、
向こうの技術が進歩するにつれて、持ち込まれる品物の価値が高くなっているのだ。
こちらの状況はほとんど変わっていないから、
結局、物々交換で差し出す物の量が増える事になる。
僕もずっと羊毛を編んできたが、今年ついに、羊を3頭、手放す事になった。

このままではそのうち立ち行かなくなるというので、キャラバンの招き入れを
打ち切る話も出ていたが、結論は出ていなかった。


この村は、谷川以外の三方を荒れ地に囲まれている。
川沿い方向にはゴツゴツとした岩場が続く。
そして川と反対方向は鋭い斜面になっていて、
そこを下った先も、延々と荒野が広がっていた。
いずれも、そこを人が行き来したという話を、いままで聞いたことはない。

一方、対岸はなだらかな斜面が平地へと続き、
広大な森林と平原、多くの村や、町や、国があった。

この地理的環境を考えれば、この村の成り立ちに関わる言い伝え――
かつて谷を渡ってきたキャラバンが、何らかの理由で対岸へ戻れなくなり、
この地に住むようになった――
というのも、正しいかもしれないと思えるのだった。

「雲集めか…」

事実、村には雲を渡れる者はいない。
せいぜい雲を踏んで、その場にとどまるくらいのもので、
それも大工のレイベさんや、木登りの得意なリックなど、ごく一部だ。

もちろん僕も全くダメだった。
同じようなモコモコでも、羊のたくましい背中のようにはいかない。
思いきり密集した雲なら、確かに感触はあるのだけど、
それでもするりと体重をかわされて、とても立てるような物ではなかった。

雲が足りなければ足りないほど、作業は手間取りそうだ。

僕が手伝える事と言えば、ささやかな事だった。
預かってきた布履きに、羊毛を編みこむ。
これを履くことで、少しは雲を踏むのに役立つのだ。

村より少し下方にあるキャラバンの迎え口では、
すでに雲集めの準備が整いつつあった。
雲払いを大きくしたような道具がいくつか用意されていて、
これを使って雲をかき集めるのだ。

「あ、レイベさん。はい、布履き。よろしくお願いします」
「おう。ご苦労さん。こっちはもう準備万端だ。
 あとは凪の始まるのを待つだけだな」


それから僕は、羊を連れて谷沿いの道を歩いた。
大凪の前とはいっても、この時期は例年通り強い谷風が吹いている。
まだ遠くに見える綿雲も、すぐに村の所まで下りてくるだろう。
カナトコは綿雲へと姿を変えて流れ出し、秋になるまでには完全に消えてしまう。
大凪が早すぎても遅すぎても、(今年は少し早目なのだけれど)
キャラバンはやって来れない。

キャラバンのおかげで、特に近年、村の暮らしはとても良くなった。
一方で僕のように、大事なものを手放さなければならなくなった人もいれば、
仕事が倍以上に増えた人もいる。
だが、文句を言う人はいない。

そもそもこの取引は、村−キャラバン間という形で行われ、
僕たちに課せられた仕事は、いわば村に納める「税」だ。
キャラバンから得た物は、必要に応じて公平に分配され、
あるいは公共の場で自由に使えるようにする。
個人がどうこう言う問題ではないし、それに不満を感じる人も、いないと思う。

羊たちは何も知らずに、谷風に目を細くしたり、
たまに顔にまとわりつく雲を、耳をはためかせて払ったりしていた。
できるならば、僕が知った全ての事を羊たちに話して、
全て納得してもらってからキャラバンへ渡したい、そう思った。


翌朝、起きて外に出ると、もうレイベさん達が慌しく動きまわっていた。
夜の間に凪が始まっていたので、すぐに雲集めに取りかかるらしい。
参加者を全員集めると、すぐに谷の方へ向かっていった。
僕も羊を歩かせたあと、昼過ぎに様子を見に行くことにした。

谷の方へに行くと、もう人がたくさん集まっていて
前日祭でも始まったように盛り上がっていた。
見ると、谷からせり出した岩の先には、きれいに綿雲の橋ができている。
レイベさん達が谷へ向かってからまだ数時間、驚くような早さだ。

理由は簡単だった。リックの働きが物凄かったのだ。
以前から得意だった雲踏みはさらに上達していて、
綱を握っては、ひょいと移動したかと思うと
右から左、下から上へと、次々と雲を運んでいったそうだ。

「いや凄いなリックの奴は!」
「運動神経がいいんだろうなぁきっと」
「そのうち向こう岸まで歩いてっちまうんじゃないか」
「ハハハッ、そいつはすげぇ!」

「いやぁ、そんな事は…」

当のリックは、困ったように笑っていたけれど、
ふと顔を上げて、谷の向こう側を眺めた時に、その景色をすっと写し込んで
瞳の色が一瞬変わったように、僕には見えた。

リックは特別に練習してはいなかったし、
練習をしたからといって出来るわけではない事も、皆よく分かっていた。
これ以上練習したところで、雲を歩けるわけでもないだろう。
結局僕達は、見えない何かで、この場所に繋ぎ止められてるのかも知れない。

谷は、重たそうな綿雲で満たされていた。
凪が始まれば、そのピークである大凪まではもうわずかだ。


異文化との交流がない村にとって、
数年に一度のキャラバンは特別な日であり、広場では祭りも行われる。
通りには装飾が施され、やがて露天が立ち並ぶ。
準備が着々と行われ、村全体が、にわかに活気付いていた。

僕は羊の体調に常に気を配り続けた。
もし渡した羊が病気だったりしたら事だ。
渡す3頭はもうほぼ決まっていたが、それでも直前まで何があるか分からず、
最終的に決定するのは当日になってからだ。


その日、朝にはもうほとんど風がなく、昼前には完全に止んでいた。大凪だ。
村はいよいよ慌しくなったが、やがてガゼフさんの呼ぶ声がして、
村の人は皆、雲の橋の方へと向かった。
いよいよキャラバンがやってくるのだ。

谷中の雲が、まるで時を止めたように形を保っていた。
密度の増した綿雲は光をよく反射し、一面が雪原のように眩しい。
細い板切れのみたいだった橋は、流れてきた雲と合わさって、
尾根道のようにして膨らんでいた。

濃い綿雲の上に、薄い霧のように雲の切れ端が浮かぶ中、
遠くの方に、黒い影が見えた。
わっ、と歓声が上がる。

キャラバンの人数は20人程で、
それぞれが大きな荷車を引き、長い列を作っていた。
足元を確かめるように、一歩一歩を踏みしめながら、
ゆっくりと近づき、そして谷に突き出た岩から、地面へと降り立つ。

薄褐色に統一されたローブには、それぞれに細やかな金属刺繍がされ、
色とりどりに輝いていた。
顔の部分は半透明な板で覆われていて、表情はよく伺えない。


村一同で歓迎の挨拶をした後、
ガゼフさんとキャラバン隊員が、見知らぬ言葉で短く会話をした。
周りを走り回っていた子供達に荷物を持たせ、一隊を広場まで案内する。

荷物の内容を軽く確認した後、隊員は用意された席に腰を下ろした。
夕方までは、体休めを兼ねて話を交わし、
それからキャラバンも交えて祭りと露店開きが行われる。
品物の交換が行われるのは翌日だ。

好奇心の強い人たちはキャラバンの周りに集まってきて、
次々と質問を投げかける。
その中から適当なものをガゼフさんが拾って、
通訳し、答えを返す。

ガゼフさんは、時折言葉を詰まらせ、通訳帳に目を通しては、
また通訳を続ける。
村に戻ってきたガゼフさんの、最も忙しい時間だ。

キャラバンはあくまでも商売の相手であり、
私的な領域に立ち入らない事は、暗黙の了解だった。
大人達の的外れな質問や、
子供達の「どうやって雲を歩いてくるの?」という素直な質問等は、
ガゼフさんによってせき止められた。

僕も、ガゼフさんに聞ききれなかった、対岸の暮らしや
地理や情勢など、思いつく限り全ての質問をした。
最も知りたかったこと――
手渡した羊がどこへ行くのか――を除いて。


やがて辺りが暗くなると、露店が開き始め、
隊員も、一人二人と準備を始めた。

キャラバンの出す露店には、書物や工芸品やアクセサリー等
ごく私的な物が用意され、村の人は、それを自由に交換する。
だけど皆、歓迎の気持ちでいくらでも品物を持ってくるので、
商売と言うよりは、祭りの一環に近かった。
物珍しい品を手にした村の人たちは、皆大事そうに抱えて、それを持ち帰る。

人のまばらになった広場中央で、ガゼフさんが椅子にもたれていた。
「お疲れさまです、ガゼフさん」
「ああ、まったくみんなよう喋りおるわ」
「数年に一度ですからね。最近はますます面白い話が聞けますし」

キャラバンの隊員たちは、それぞれ会場にばらばらになり、
品物を囲んだり、食事を共にしたり、身振り手振りを交えて、
村の人たちと交流していた。
夜は深まり、祭りは佳境へと入る。

ガゼフさんは、いつの間にか眠り込んでいた。
僕は、ガゼフさんのリュックに、そっと手をのばした。


翌日、いよいよ本来の目的である、品物の交換が行われた。
キャラバンは一斉に荷物をあけ、
目新しい物、品質が向上した物など、詳しい説明をする。
時折、村の人たちの歓声が上がった。

村の方も、それぞれ用意した品を、キャラバンの前に開いていく。
キャラバンの荷物よりもはるかに大きな山が作られた。
どれも、村の人達が丹精込めて揃えた物だ。

双方の間で品定めが行われ、取引の相場が決められる。
大体の目安は、以前の取引により定まっていて、
そこにキャラバンの方の品質の向上が加味され
細かく調整されていく。


僕は、羊を担当する隊員を羊小屋へと案内した。
隊員は、羊や小屋を品定めするように見回し、何度か小さく頷く。

慣れない事態に羊たちがわずかに騒がしくなる。
しばらく収まるのを待って、僕は言った。

「ロール、サリー、ダリア、おいで」
群れをかきわけて、3頭が僕の前に集まる。
「ごめんな、お別れだ」

3頭を順番に抱き寄せながら、僕は高ぶる気持ちを懸命に押さえ込んだ。
そして僕は向き直り、一呼吸置いて、キャラバン隊員に話しかけた。

  ミュア
  フロンミューレ
ピュエリエ?
 (あなたは 谷の向こうで  幸せですか?)


昨日の夜、僕はガゼフさんの通訳帳を盗み見て、この言葉を用意していた。
もしあの場で聞こうとしたら、ガゼフさんに止められたかもしれない。
でも、どうしても聞いておきたかった。

隊員は一瞬、驚いたように固まったが、
すぐにニコリと微笑み、言った。

   イール
 (はい。)

僕も微笑み返す。

    リミュエーレ
 (ありがとう。)

そして羊たちをつないだ綱を、隊員へと手渡した。


広場の方ではもう品物の交換が終わっていて、
キャラバンが荷造りを始めていた。

隊員は羊を連れて、仲間の方へと戻っていく。
途中でダリアが振り向き、つられて振り向いた隊員が、僕に一礼した。
僕は深く頭を下げ、頭を上げ終えないうちに向きを変えると、
羊小屋へと駆け込んだ。

柵にもたれて座り込み、羊たちに囲まれると
今までの疲れがどっと押し寄せてきて、僕は眠り込んだ。

目が覚めると、広場に人の姿は無かった。
谷の斜面へ走っていくと、もうキャラバンは村を発っていて、
村の人たちが見送る先に、小さな影が見えた。

僕も思い切り手を振り、声を振り絞って別れの言葉を叫ぶ。
雲の海の中に、僕の声は消えていった。



秋になり、雲は空高くに上っていった。
空一面の羊雲がどこまでも続き、川の上流の方向へ、
ゆっくりと流れていく。

谷を一望できるこの場所が、いつしか、
羊たちを放す定位置になっていた。

リックはガゼフさんに弟子入りし、谷を下りていった。
もともと山師に向いていると言われていたから、
夏の事がどれくらい影響したのかは分からない。
来年の夏には、二人から、また色々な話を聞けるはずだ。

僕は、どうするのだろう。
対岸のこと、そしてこの世界のことはもっと知りたいけれども、
村とも、羊たちとも離れる気はなかった。

谷に閉ざされて、ゆっくりと流れていく村の時間。
あるいは、いつしかキャラバンが来なくなり
流れを止めるかもしれないその時間の中で、
僕は羊たちと一緒に生きていくのだろうと、
今はそれくらいしか思いつかなかった。

歩き疲れた羊たちが、いつの間にか、僕の周りに腰を下ろしていた。
羊たちと一緒になって羊雲を見送るように、
僕はしばらくの間、空を眺めていた。
                                     (終)